共産主義が生んだ奇抜なクルマ 21選 東欧メーカーの名車・珍車紹介

公開 : 2025.03.16 18:45

ザスタバ・スカーラ(1971年)

フィアットとザスタバは1971年、提携関係をさらに強化し、4ドア・セダンの128の製造を開始した。1971年後半には、シムカ1100にインスピレーションを得た独自のハッチバックモデルが発売され、ラインナップが拡大した。このモデルは101と名付けられたが、市場によってさまざまな名称(スカーラもその1つ)で呼ばれた。

128の派生モデルは2008年まで製造が続けられた。2008年のベオグラード・モーターショーでザスタバが最新モデルを展示した際には、少なからぬ人々が驚きの表情を浮かべた。 スカーラの最終進化形として、アルミニウム製ラジエーター、アップグレードされた足回り部品、モダンな外観のインストゥルメント・クラスターが採用されたのだ。1970年の欧州カー・オブ・ザ・イヤー受賞車にルーツを持つモデルにとっては、とても大きな変化であった。

ザスタバ・スカーラ(1971年)
ザスタバ・スカーラ(1971年)

ポルスキ・フィアット126p(1973年)

フィアットはさらなる収益を求めて、東欧諸国へとどんどん進出していった。125pのポーランド製造を開始し、124の基本設計をラーダに提供し、ザスタバには128を自社製品として販売することを認めた。そして、ポーランドのFSM(Fabryka Samochodow Malolitrazowych=直訳すると小型車工場)に126のライセンスを供与した。

1973年に製造が開始された126は、ポーランド語で「小さなもの」を意味する「マルッフ(Maluch)」という愛称で呼ばれ、その低価格とシンプルなデザインもあって、ポーランドで最も人気のあるクルマの1つとなった。10年も経たずして、累計100万台を達成している。

ポルスキ・フィアット126p(1973年)
ポルスキ・フィアット126p(1973年)

西欧では1991年から126の後継車種としてチンクエチェントが登場したが、ポーランドでの製造は2000年まで続いた。126の460万台のうち、約330万台が「メイド・イン・ポーランド」のラベルを貼られていた。

ラーダ・ニーヴァ(1977年)

ラーダ・ニーヴァの設計担当者に与えられたガイドラインは、「ランドローバーのようなシャシー」に「ルノー5のような外観」というものであった。その使命は完遂された。ニーヴァはウズベキスタンの砂漠で徹底的にテストされた後、1977年にロシアで発売された。実用本位の日常的に運転できるオフロード車として、製造コストが安く、維持管理も容易であった。ラーダはジープのようなオープンタイプの試作車もテストしたが、シベリアの冬の過酷な現実を検討した結果、賢明にも屋根付きの設計を選択した。

ニーヴァはあらゆることを経験してきた。世界のあらゆる地域に輸出され、カナダや南極大陸のキングジョージ島でも販売実績がある。2025年現在も製造が続けられており、ラーダ・ニーヴァ・レジェンドという名称で販売されている。

ラーダ・ニーヴァ(1977年)
ラーダ・ニーヴァ(1977年)

記事に関わった人々

  • 執筆

    ロナン・グロン

    Ronan Glon

  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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