無二のザガート・クーペ ローバー2000 TCZ(1) 傑作4ドアサルーンが土台のワンオフ

公開 : 2025.04.13 17:45

事業拡大に積極的だった1960年代のザガート スパーダが描いた個性的なクーペ SF映画へ登場しそうなシルエット 量産を拒んだ傘下の他ブランド 来日経験もある貴重な1台を英編集部がご紹介

事業拡大へ積極的だった1960年代のザガート

1965年のある日、イタリア・ミラノのジャンニ・ザガート氏は、ローバー2000という新型サルーンを素材に、コンセプトモデルの製作を申し出たらしい。詳細な記録は残っていないが、試作段階にあった2000 TCが、その後に届けられたことは間違いない。

果たして、アルミニウム製のクーペボディが生み出され、1967年のスイス・ジュネーブ・モーターショーでお披露目されている。費用を負担したのは英国のローバーではなく、独自のボディ製造を請け負う、ミラノのカロッツェリアだった。

ローバー2000 TCZ(1967年/ワンオフモデル)
ローバー2000 TCZ(1967年/ワンオフモデル)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

1960年代のザガートは、事業拡大に積極的だった。ランチアフルビア・スポーツの一定の成功を受け、量産車への関心を深めると、英国のブリストルアストン マーティンと関係性を強化。グレートブリテン島の業界では、確かな評判が構築されつつあった。

創業者のジャンニ・ザガート氏が、ローバーの本社を訪れたことは1度しかなかったが、信頼関係は育まれていた。ローバーのスタイリングを取り仕切っていたデビッド・ベイチュ氏が、改めて彼を招待する機会を設けたのは自然な流れといえた。

かくして、正式に依頼を受けたわけではない2000 TCZはカタチになり、ローバーとしての承認を得た。少数の限定でも、ある程度が量産されることを、ザガートは期待していたに違いない。

エルコレ・スパーダが描いた個性的なクーペ

しかし、P6シリーズの2000は英国を中心に大ヒット。生産が追いつかないほどの注文を、全長4530mmの4ドアサルーンは集めていた。ローバーに、ニッチなクーペへ対応する余力は、殆ど残っていなかったと想像できる。

加えてその頃、英国の自動車ブランドは統廃合が進んでいた。ブリティッシュ・レイランドの一員として、ジャガーはローバーと親会社を共有することに。ジャガーのウィリアム・ライオンズ氏が、Eタイプ・クーペの競合モデルを望んだとは考えにくい。

ローバー2000 TCZ(1967年/ワンオフモデル)
ローバー2000 TCZ(1967年/ワンオフモデル)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

2000 TCZの個性的なスタイリングを手掛けたのは、1969年にフォードへ移籍することになる、デザイナーのエルコレ・スパーダ氏。フルビア・スポルトやフィアット125 GTZ、ボルボ142 GTZに次いで描き出されたボディだった。

当時のスパーダは、ザガートのチーフデザイナーとして手腕を振るっていた。彼が抜けたことで、小さなカロッツェリアの黄金期が終わりに向かったことは否定できない。

2000 TCZでの、デザイン要件は少なかった。ホイールベースを共有すること以外、自由にフォルムを描き出せたと考えられる。全高はサルーンより100mm低く、全長もかなり短い。滑らかな面構成と、軽量に仕上げることは前提だっただろう。

ただし、P6シリーズではガスタービンエンジンの搭載計画があり、特殊なフロントサスペンションは継承されている。縦方向のリンクとバルクヘッドに固定されたコイルスプリングが備わり、フロントフェンダー上部のラインはほぼ決まっていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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