ライバルはブガッティ ホルストマン・スーパースポーツ(1) 流線型の繊細なアルミボディ

公開 : 2025.04.25 18:05

戦前にバンクカーブを130km/h以上で疾走したホルストマン 繊細でか弱く見える流線型のアルミボディ ライバルはブガッティ 公道を走れレースで戦える2面性 現存唯一の希少車を英編集部がご紹介

戦前のバンクカーブを疾走したホルストマン

今はなき、英国ブルックランズ・サーキットのバンクカーブを130km/h以上で疾走した、ホルストマン・スーパースポーツ。滑らかな公道では、伝説をすべて理解することは難しい。だから今日は、傾斜角が25度もついたバンクカーブを突き進んでいる。

戦前のスポーツレーサーへ、ふさわしいコースだ。ステアリングホイールを握る筆者には、不安がつきまとうが。

ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)
ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

1921年の本戦と比べると、スピードは7割にも届かない。それでもストレートマフラーからの轟音、レーシングカートのようにダイレクトなステアリング、効くことを信じるしかないブレーキの中へ身を置けば、英雄的ドライバーの経験が自ずと重なる。

約320kmを走り切る、ブルックランズ・サーキット初の200マイルレースでは、シドニー・ホルストマン氏がドライバーとして参加予定だった。このスーパースポーツで。

しかし、既に3台のホルストマンがスターティンググリッドに並んでいた。彼がこれ以上戦う必要はないと判断したことで、TA1798のナンバーで登録された1台は、レースへの参戦歴が生まれなかったかわりに、唯一の残存例になったといえる。

現在は、グレートブリテン島中部ダービーシャー州の自動車博物館、グレート・ブリティッシュカー・ ジャーニーに展示されている。無駄のないシルバーのボディはドイツ車的に見えるが、れっきとした英国車だ。

時計職人として成功した父 1900年にエンジン開発

シドニーの父、グスタフ・ホルストマン氏は、18世紀のプロイセン王国(現・北ドイツ)出身だったが、1853年に渡英。時計職人として成功し、その才能は1881年生まれの息子へ受け継がれた。

「父の明晰な頭脳は、日々の問題に対する新しいアプローチを常に提案するようでした」。シドニーは後年に振り返っているが、彼もまた、1900年に単気筒エンジンを独自に開発。1903年には、バース・ガレージ&モーター社を共同設立している。

ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)
ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

1906年に、グレートブリテン島南西部のバースで、ホルストマン・カー社を創業。自動車が猛烈な進化を遂げていた当時、増加する一方のライバルを出し抜くには、前例のない技術力や性能が不可欠だった。

ホルストマン8.9hpが発表されたのは、1913年。2シーターのオープンスポーツは、価格が145ポンドで、「最も斬新な機能を備えたクルマ」だと主張された。

彼は以前に、ベルギーのFNバイク社向けに2速トランスミッションを設計し、特許を取得しており、その技術が利用された。フレキシブルなリムとスプリング・スポークを採用したスプリング・ロードホイールも、信頼性は低かったが、目新しい技術だった。

エンジンは脱着可能なシリンダーヘッドを組んだ、1.0L直列4気筒。手回しクランクでの始動は不要で、始動用ペダルが設けられ、1度踏み込むと3回転ぶんクランキングすることができた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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