ライバルはブガッティ ホルストマン・スーパースポーツ(1) 流線型の繊細なアルミボディ

公開 : 2025.04.25 18:05

3週間で1.5Lエンジンのレーシングカーを製作

シャシーは、アルミニウム製プレートだったフロントメンバーが特徴。オイルパンやペダル、ラジエーター、ステアリングラックのマウントを兼ねていた。販売は好調で、モデル・ドゥ・リュクス、クーペ、コロニアルという3種類を展開するに至っている。

第一次大戦が勃発すると、ホルストマンはねじゲージの生産へシフトし、収益を維持。大英帝国勲章が与えられている。

ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)
ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

終戦を迎えると、1919年に自動車生産を再開。コベントリー社製エンジンを積んだ新型4シーターを開発するが、戦後経済の混乱に揉まれ経営が傾き、1921年には破産管財人の管理下に置かれてしまう。少なくとも、戦後当初は安定していたようだが。

戦前のモータースポーツは、今以上にブランドが生き残る上で重要な役割を果たしていた。予算規模の小さいメーカーでも、走行性能や耐久性を証明する絶好の機会になった。

1921年9月、レーシングドライバーのウォレス・ダグラス・ホークス氏は、クーペ・デ・ヴォイユレットと呼ばれたタイプの、レーシングカー製作をシドニーへ依頼する。フランス・ル・マンでの会期まで、3週間を切っていたタイミングだった。

この仕事を、ホルストマンは11日で処理したらしい。アンザニ社製の1496cc 4気筒エンジンを搭載し、当時では珍しく、フロントアクスル側にもブレーキが組まれていた。

流線型のアルミボディ ライバルはブガッティ

惜しくも、リアアクスルの不調でレースはリタイアするものの、ホークスとシドニーはモータースポーツでの可能性を見出した。英国初のサーキット、ブルックランズで開かれる10月22日の200マイルレースへ向けて、マシンの製作が始まった。

残された時間は約1か月だったが、ホルストマンは全力を尽くした。アンザニ社製エンジンを載せた既存の1台も改良しつつ、スーパースポーツと名付けたマシンを4台用意。追加の3台には、コベントリー社製の4気筒シンプレックス・エンジンが搭載された。

ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)
ホルストマン・スーパースポーツ(1921〜1925年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

ラジエターカウルの上部は斜めに削られ、後方に続くボディは流線型。ストレートマフラーが、滑らかな面へ沿うように後方へ伸ばされた。

招聘したドライバーはホークスの他に、CFA.テンプル氏とTL.エドワーズ氏。当初の計画では、シドニー本人も1台で参戦予定だったらしい。しかし、実際にスタートを切ったのは3台のみ。彼は、サポートに徹したようだ。

ライバルは手強かった。同じ1.5Lエンジンクラスにエントリーしたのは、タルボ・ダラックやブガッティ。記念すべきレースに、錚々たるメンバーが名を連ねた。ビル・ボディ氏による1947年の著書「200マイルレース」では、次のように記されている。

「レーシングカーが、自分たちの小さなクルマが出せる2倍の速度で、ブルックランズを周回するのを目撃できる機会でした。1462台のクルマと198台のバイクに乗った6630人の観衆が、土曜日の早朝に集まったのも不思議ではありません」

この続きは、ホルストマン・スーパースポーツ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋けんじ

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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