豪雨が味方した1995年のル・マン マクラーレンF1 GTR(2) 優勝車の興味深い余談とは?

公開 : 2025.06.14 17:50

老舗百貨店、ハロッズがスポンサーに付いたF1 GTR ライバルはプロトタイプマシン 最後の数時間は5速と6速だけで走行 豪雨の1995年のル・マンを戦った51号車を、UK編集部が振り返る

史上最も雨に降られた1995年のル・マン

1995年のル・マン24時間レース。第63回を数えた耐久戦は、史上最も雨に降られた1戦になった。しかし、これがマクラーレン勢にチャンスを与えた。以前から弱点とされていた、トランスミッションの負荷を抑えられたからだ。

プロトタイプマシンのライバルに、トラブルが続出したことも追い風になった。期待されたクレマー・ポルシェは雨に苦戦し、スプリングとダンパーの交換に迫られた。夜間のサルト・サーキットは、燦々たるコンディションだったようだ。

ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)
ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)    マクラーレン

ハロッズのF1 GTR、51号車を駆ったデレック・ベル氏が振り返る。「本当に酷かった。すべてのマシンがスピンした場所もあったかな」。彼は、ドライバーで息子のジャスティン・ベル氏と、アンディ・ウォレス氏に説得され、参戦を決意していた。

「ドライバー交代で、息子のジャスティンはアドバイスが欲しそうな目で自分を見たんです。ミュルザンヌ・コーナーは少し滑りやすいよと、伝えました。それでも不安そうでした。息子と二度と会えないんじゃないか、心配になったほど」

国際開発レーシングへ有利に傾いたレース

13グリッドでスタートしたハロッズのF1 GTRは、大雨の中、2時間後にトップへ。日が暮れると、同じくデビッド・プライス・レーシング(DPR)が擁する、ウエスト・コンペティションのF1 GTRがリード。しかし、クラッチトラブルで幕切れとなる。

深夜には51号車と、JJレート氏にヤニック・ダルマス氏、関谷正徳氏が駆る、国際開発レーシングのF1 GTR、59号車がレースを牽引。特に59号車は、ナイトスティントで驚きの速さを見せた。

ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)
ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)    マクラーレン

ウォレスが振り返る。「デレックさんは、勝てるチャンスが有ればギアを1段上げることができました。素晴らしい走りでしたね」

ところが日曜日のお昼が迫った頃、ハロッズのF1 GTRにもクラッチトラブルが発生してしまう。チームは、不調を覚悟していた。最終的に、レースは国際開発レーシングへ有利に傾いていった。ジワジワと。

最後の数時間は5速と6速だけで走った

この3日前の金曜日、マクラーレンF1のデザイナー、ピーター・スティーブンス氏は、クラッチの部品を探すために費やした。技術面でも大きく貢献していた彼は、強化クラッチの圧力が高く、割れてしまうベアリングの対応に追われていた。

オリジナルのクラッチへ戻すことも、DPR側は考えたらしい。だが、新しいクラッチの調達は難しいというのが、マクラーレンの返答だったようだ。

ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)
ハロッズ・マクラーレンF1 GTR(1995〜1996年)    マクラーレン

レース終盤を迎える頃には、デレックは変速へ苦労していた。最終的には、フォード・シケインで故障。国際開発レーシングのF1 GTRと、アンドレッティが駆るクラージュ・ポルシェC34に抜かれるものの、51号車は3位フィニッシュを果たした。

デレックの話では、最後の数時間は5速と6速だけで走ったという。それでも、初参戦となったF1 GTRは、国際開発レーシングの59号車によって歴史的な総合優勝を飾った。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    中嶋けんじ

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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