ロータス・エリーゼの生みの親 ジュリアン・トムソンxリチャード・ラックハム 前編

公開 : 2021.12.05 07:05

傑作スポーツのロータス・エリーゼを創造した、デザイナーとエンジニア。英国編集部が2人へ誕生秘話を伺いました。

25年の歴史に幕を閉じるエリーゼ

1995年のドイツ・フランクフルト。ロータス・カーズは財政難に苦しむなかで、親会社のブガッティを率いるロマーノ・アルティオーリ氏のアイデアを元に、新しいスポーツカーを創造した。そのクルマには、孫娘のエリーサにちなんだ名前が与えられた。

自動車ファンの欲求を満たすモデルとして、当初は限定的な生産台数が想定されていた。しかしエリーゼは、ロータス・カーズ史上最も多売のモデルへと、またたく間に成長した。多様なモデルバリエーションを生み出しながら。

ロータス・エリーゼ・シリーズ1を囲んで話す、ジュリアン・トムソン氏(右)とリチャード・ラックハム氏(左)
ロータス・エリーゼ・シリーズ1を囲んで話す、ジュリアン・トムソン氏(右)とリチャード・ラックハム氏(左)

寂しいかな、何事にも終わりは来る。エリーゼは2021年をもって、3万5000台という生産台数で、25年の歴史に幕を閉じる。

そこで英国編集部は、ジュリアン・トムソン氏とリチャード・ラックハム氏を招聘し、誕生秘話を伺うことにした。ロータス・カーズが買い戻した、フランクフルト・モーターショーへ出展されたグリーンの初代エリーゼとともに。

クリエイティブなビジョンを持ち、最大の友人でもある2人は、公私ともに交流が深い。エリーゼのモデルライフに、誰より深く関わってきた。傑作プラットフォームを生み出すことで。

ラックハムは、1987年に技術者としてロータスへ入社。急速に拡大するへセルの開発現場で車両コンセプトのチーフへ就任し、確固たる地位を築いてきた。

他方のトムソンは、当時はロータスでデザイナーとして既に手腕を奮っていた。その後ジャガーに移籍するが、今はこれまでの経歴を活かしジュリアン・トムソン・デザイン社を立ち上げている。

忙しいお2人にご参集いただいた。早速エリーゼ誕生当時を振り返っていただこう。

VWのヘッドライトと同じ開発予算

リチャード・ラックハム氏(以降:RR)「当初の事業計画では、公道用モデルで年間750台を4年間製造する予定でした。ですが、その限られた数字では我慢を強いられる人が大勢いたんですね」

「主要なシャシー構造が設計された後に、ドアと屋根を追加する変更が加えられました。乗降性に制限が出た理由です。最初からドアとルーフが想定されていれば、だいぶ違っていたでしょう。当時のわれわれができる、最もシンプルなクルマでした」

ロータス・エリーゼ・シリーズ1を囲んで話す、ジュリアン・トムソン氏(右)とリチャード・ラックハム氏(左)
ロータス・エリーゼ・シリーズ1を囲んで話す、ジュリアン・トムソン氏(右)とリチャード・ラックハム氏(左)

「複雑さを増すことは、大きな問題になります。ボディはクラムシェル構造として一体化されており、実際とてもシンプルです。インテリアも同じ。何かを追加するほど、コストも増えます。パネルの数を減らすことが、重要な課題でした」

ジュリアン・トムソン氏(以降:JT)「準備できる専用の製造用機械の数は、極めて限定的でした。そのため、ウインカーとテールライトのレンズは、同じ成形型を用いています。それでも、大きな投資といえるものでした」

「いかに全体の予算が限られていたのかわかりますよね。わたしは1998年にロータスを離れ、フォルクスワーゲンへ移っています。そこで最初に関わったのが、ヘッドライトのデザイン。その部品1つで、エリーゼ全体の開発予算より多かったんですよ!」

記事に関わった人々

  • 執筆

    アラステア・クレメンツ

    Alastair Clements

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ロータス・エリーゼの生みの親 ジュリアン・トムソンxリチャード・ラックハムの前後関係

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