V型4気筒にモノコックボディ ランチア・ラムダ 100年前の革命児 体験を一変 前編

公開 : 2023.01.29 07:05

前後のブレーキに独立懸架式サス

その頃のランチアで主任技術者を務めていたのが、バッティスタ・フェルチェット氏。革新的な設計の旗振り役となった。

100年前の自動車業界では、フロントタイヤ側のブレーキに懐疑的な考えを持つ技術者が多かった。ベントレーを創業した、WO.ベントレー氏も否定的だったという。

ランチア・ラムダ・フォー・シリーズ・トルピード・ツアラー(ティーポ214/1924〜1925年/欧州仕様)
ランチア・ラムダ・フォー・シリーズ・トルピード・ツアラー(ティーポ214/1924〜1925年/欧州仕様)

それに対し、フェルチェットは試作車でフロント・ブレーキだけを効かせ、安定性に問題がないことを証明。リア側のブレーキも機能させると、一層効果的であることも確認した。

独立懸架式のフロント・サスペンションは、ヴィンチェンツォも望ましいとは考えていなかった、リジットアクスルに対する回答だった。フェルチェットは14種類の設計を試したが、左右個別に掛かる負荷が課題になった。

最終的に、ダンパー内のオイルの流れを制御するバルブを備え、固定されたストラットをハブが上下するスライディングピラー機構を開発。ランチアの特長として40年間も採用されることになった。

V型4気筒エンジンも同社独自の設計。担当したのはプリミティーヴォ・ロッコ氏とアウグスト・カンタリーニ氏という2人で、ブロックの長さが短く操縦性の向上に繋がった。

このユニットも、1976年にフルビアが製造を終えるまでランチアの特長として受け継がれた。シリンダーを微妙にずらして並べることで小さくし、エンジンルーム内からトランスミッションへアクセスすることも可能だった。

ラムダでは、試作を繰り返しバンク角を13.6度に設定。2119ccから当時としては優秀な48ps/3250rpmを発揮させている。

当初はオープンのトルピード・ツアラーのみ

他方、スタイリングも注目に値する。プロトタイプでは丸みを帯びたツアラーボディだったが、最終的には平面的でスクエアなデザインに帰結している。当時の流行でもあった。

セパレートシャシー構造であれば、その頃は一般的だったコーチビルダーやカロッツエリアによるボディの架装が可能だった。しかし、モノコック構造はシャシーと一体なため、当初はランチアで製造されるボディへ選択肢が限定されていた。

ランチア・ラムダ・フォー・シリーズ・トルピード・ツアラー(ティーポ214/1924〜1925年/欧州仕様)
ランチア・ラムダ・フォー・シリーズ・トルピード・ツアラー(ティーポ214/1924〜1925年/欧州仕様)

ファイブ・シリーズまでは、オープンボディのトルピード・ツアラーのみが作られている。クロスとウッドで仕立てられたバロン・スモンタービレ・ハードトップが用意され、乗員を風雨から守った。

1922年から1931年まで9シリーズ作られたラムダは、モデルチェンジと呼べるほどではなかったが、進化を重ねた。サイズが大きくなり、エンジンの出力も高められつつ、当初のテンプレートは最後まで保たれた。

初期のフォー・シリーズまでの違いは小さく、ファイブ・シリーズからは4速マニュアルが搭載されている。だが最も大きなステップは、1925年のシックス・シリーズだろう。

オプションとして、320mm延長した3420mmのロングホイールベース版の選択が可能になっている。最大で6名乗車が可能なボディが用意され、ドラムブレーキも制動力が強化された。

当初、ラムダのボディの製造を担っていたのはフィアットだったが、ロングボディの誕生を機に契約を終了。直後は職人によるハンドビルドでまかなわれたが、アルビノ・アーリ社に生産が移管されている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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