マセラティとブガッティを経た大物移籍 ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニ(1)

公開 : 2023.11.25 09:45

マセラティとブガッティ、ランボルギーニで手腕を発揮したレッジャーニ氏 スーパーカーだけでなく、アウディによる買収も創出 英国編集部が鬼才へインタビュー

スーパーカーの巨大勢力があるイタリア

イタリアのスーパーカーには、いくつかの巨大勢力があることはご存知の通り。ただし、お互いに近い距離にあり、完全に分断されてきたわけではない。

北部のエミリア・ロマーニャ州には、フェラーリランボルギーニだけでなく、パガーニも拠点を置く。マセラティMC20ダラーラ・ストラダーレの生産工場も位置する。自動車業界で最もエキサイティングな話題の多くは、小さなエリアから発信されている。

ランボルギーニを牽引した1人、マウリツィオ・レッジャーニ氏
ランボルギーニを牽引した1人、マウリツィオ・レッジャーニ氏

マウリツィオ・レッジャーニ氏は、その中心で手腕を発揮してきた1人。今年で64歳になる技術者は、2023年末をもってランボルギーニのモータースポーツ部門から一線を退くという。それ以前には技術部門へ属し、最高技術責任者に就いた期間もあった。

彼がランボルギーニの一員へ加わったのは1995年。その頃の年間生産数は約200台で、従業員も200人以下だった。それが2022年では、年間9000台まで成長。スタッフも2000名へ増えている。

彼の自動車業界への貢献が認められ、2023年初頭にボローニャ大学から機械工学の名誉博士号が授与された。以前に同じ栄誉を与えられたのが、エンツォ・フェラーリ氏。62年も昔のことだが。

これを称えるべく、理解あるランボルギーニ・オーナーなどのご協力をいただき、モデナ近郊のカントリーハウスで小さなミーティングを開くことにした。彼が関わった、歴代の代表的モデルを揃えて。

マセラティからブガッティの再生へ

レッジャーニは大学を卒業すると、マセラティのエンジン開発部門へ就職。最初に取り組んだのが、マセラティ・ビトルボだった。

V6ツインターボエンジンを搭載していたが、キャブレーターで燃料が供給されており、高温時にはガソリンが気化してしまうベーパーロック現象が頻発した。これを解消するため、マニエッティ・マレリ社製の燃料噴射システムへ置換したのが彼だった。

マセラティ・ビトルボ(1981〜1994年/欧州仕様)
マセラティ・ビトルボ(1981〜1994年/欧州仕様)

「わたしが問題を解決できると、証明できた案件でした」。レッジャーニが振り返る。

マセラティでの仕事は比較的安定していたが、新しい挑戦は殆どなかった。そこで5年後、転職を志す。すぐに新しい会社から声がかかったが、どこで働くのか当初は明かされなかったという。

「ターボの専門家を求めていましたが、重要な歴史的ブランド、だとしか伝えられませんでした。名前を教えてもらえなければ興味はありません、とお答えしました」

「しばらくして、ランボルギーニの技術者も務めた、パオロ・スタンツァーニ氏から電話があったんです。面識がなかったので、直接連絡があったことには驚きましたよ。来てもらえないだろうか。わたしを信じて欲しい。彼は、そう話しました」

レッジャーニが転職した先は、ロマーノ・アルティオーリ氏がスタートさせた、ブガッティ・ブランドの再生プロジェクト。2人目のスタッフだった。世界で最も速くエキサイティングなスーパーカーの発売を目指していると知ったのは、働き始めてからだった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マイク・ダフ

    Mike Duff

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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