【いすゞアッソ・デ・フィオーリ誕生の軌跡:前編】ジウジアーロがデザインしたピアッツァの原点!始まりは117クーペ
公開 : 2025.06.24 12:05
オートモビルカウンシル2025にジョルジェット・ジウジアーロ氏が来日することを記念し、いすゞは『アッソ・デ・フィオーリ』を展示しました。そこで前編、後編の2回に分け、このモデルについて内田俊一が詳しくご紹介します。
カロッツェリア・ギアにデザインを依頼
『オートモビルカウンシル2025』にジョルジェット・ジウジアーロ氏が来日することを記念し、いすゞは『アッソ・デ・フィオーリ』を展示した。そこで前編、後編の2回に分け、このモデルについて詳しくご紹介する。なお、当原稿はいすゞ広報からのコメントなどをもとに、筆者が補完して作成したものとなる。
いすゞは1960年代、営業サイドより『ベレット』よりも上級車である『ヒルマン』後継車の要望が強まり、後の『フローリアン』開発をスタート。そこで『カロッツェリア・ギア』(以下ギア)にデザインを依頼した。

実は、いすゞは1958年に英国ルーツ社と乗用車『ヒルマンミンクス』の技術援助協定を締結するなど、欧州の情報を吸収していたこともあり、デザイン面においても積極的に欧州テイストを取り入れていた。
そうした素地があったことに加え、後にジウジアーロ氏とともにイタルデザインを起業する日本人、宮川秀之氏の存在も大きかった。宮川氏はベルトーネとマツダを結び付けた実績をもとに、日本へイタリアンデザインを広めるためいすゞと接触していた。
このデザイン開発途中に、カロッツェリア・ベルトーネからギアへ移籍したジウジアーロ氏が加わったといわれている。その後、そのフローリアンのアンダーフレームを使ってクーペを作るというアイディアがジウジアーロ氏からもたらされ、フローリアンの派生モデル『いすゞスポーツクーペ』、後の『117クーペ』が誕生する。スポーツクーペは1966年3月に開催されたジュネーブ・ショーに出品され、大いに注目を集めた。
当時のいすゞ首脳部が興味を示した
それ以降、ジウジアーロ氏と宮川氏はいすゞと関係を密に保ち、117クーペ後継として何案かのデザインスタディのアプローチがもたらされた。そのひとつに『コンパクトで実用性が高く、しかもスーパーカーとしてのディグニティを持ち得るクルマ』いう、SSC(スモール・スーパー・カー)構想があった。
これに対し当時のいすゞ首脳部が興味を示したのがきっかけで、1978年5月9日にジウジアーロ氏、宮川氏と会談のうえ、ショープロトタイプ(=アッソ・デ・フィオーリ)製作が決まったといわれている。

決定後、いすゞ側からジウジアーロ氏には、以下の条件が提示された。
・既存のコンポーネントを利用すること(ジェミニのシャシーとエンジン)
・話題となるような良いスタイリング
・2+2+αの居住性、実用性
・ラゲッジルームの使いやすさのアイディアが欲しい


































