「ビッグスリー」に挑んだ米国有数の自動車メーカー カイザー・フレイザーの栄枯盛衰(前編) 戦後復興と華々しいデビュー
公開 : 2026.05.06 11:05
ウィリスを立て直したフレイザー氏
ウォルター・P・クライスラー氏は、マクスウェル・チャルマーズの販売責任者としてフレイザー氏を抜擢した。同社がクライスラー・コーポレーションへと発展した際、フレイザー氏はその過程に携わっていた。その後、再び転身し、1939年には経営難に陥っていたウィリス・オーバーランドの社長に就任。限られた予算の中でウィリスの製品ラインを刷新し、新たな広告戦略を展開するとともに、販売店に対し販売努力の強化を促した。生産と販売は増加し、1940年には米陸軍の多目的車両(後のジープ)の契約を獲得。会社の将来を確固たるものにした。

2人の出会いと提携
戦後、フレイザー氏(写真右)は、1940年に乗用車の生産を停止していた小規模な独立系自動車メーカー、グラハム・ペイジの経営権を獲得した。戦後のグラハム車開発のために資金調達に奔走したが、出資者を見つけるのに難航。そこで、世界でも最も有名な実業家の1人であり、米国の戦時体制に多大な貢献をしたヘンリー・カイザー氏(左)と提携することを決めた。
カイザー氏の名声は非常に高く、彼の名前が入っていれば、銀行は事実上どんな事業でも喜んで融資してくれるほどだった。戦時中の造船業での活躍もあって、カイザー氏は誰もが知る存在であり、市民は新たに立ち上げられたカイザー・フレイザー社の新型車のニュースを熱心に待ち望むようになった。

絶好のタイミングでの設立
新会社は、米国社会が切実に求めていた自動車を生産するという使命を持って設立された。民間市場向けの自動車は1942年1月以来生産されておらず、現在よりもはるかに耐久性が低かったため、米国の車両在庫は枯渇しつつあったのだ。経営陣は、自動車を販売する絶好の機会を掴んだと確信していた。素材や部品の供給問題に関しては、カイザー氏が戦時中に構築した専門家たちのネットワークを活かすことになった。

前輪駆動車の試作と量産化
カイザーは前輪駆動車を好んでおり、初期の報道写真には魅力的なプロトタイプが写っていた。しかし、前輪駆動車を生産するための設備を入手するのは困難を極め、結局、グラハム・ペイジ社がハワード・“ダッチ”・ダーリン氏(1897〜1982年)に発注した新型セダンの設計を採用することにした。この写真では、ヘンリー・カイザー氏が生産ラインから出た最初の量産モデルを検査している。

興奮に包まれたローンチイベント
新型車は1946年1月、ニューヨーク市の名門ウォルドルフ・アストリア・ホテルで初めて一般公開された。その姿を一目見ようと、大勢の人々が詰めかけたが、待ちきれずにホテルのガラス扉を突き破ってしまった。並外れて興奮に満ちたイベントであった。ヘンリー・カイザー氏が登場すると、人々は拍手喝采を送り、声を枯らすほどの大きな歓声を上げた。



























