その名は今も生きる 「ビッグスリー」に挑んだ米国有数の自動車メーカー カイザー・フレイザーの栄枯盛衰(後編) 後世に残した功績

公開 : 2026.05.06 11:45

戦後の米国自動車産業で大きな役割を果たしながら、今ではほとんど知られていないメーカー『カイザー・フレイザー』。いかに問題を乗り越え、ビッグスリーに対抗したのか。その誕生と発展、衰退の経緯を紹介します。

ヘンリーJの活躍と没落

『メカニックス・イラストレイテッド』誌のトム・マッカヒル記者はヘンリーJについて、皮肉を込めて「若くして煙草を吸い始めたキャデラック」のようだと評している。ボディスタイルは2ドア・セダンのみで、4気筒または6気筒エンジンが用意された。販売は当初好調で、1951年モデルイヤーには8万2000台が売れた。しかし、1952年の生産台数は約3万台に落ち込み、1953年にはわずか1万6672台にとどまった。

ヘンリーJの活躍と没落
ヘンリーJの活躍と没落

貧しい人々のためのクルマ

ヘンリーJは米国市場においてはあまりにも小さすぎ、また質素すぎた。トランクリッドもグローブボックスもなく、自動車用エアコンが初めて導入されようとしていた時代に、換気システムさえも備えていなかった。カイザー氏が長年抱いていた「高品質で低価格なクルマ」という夢の実現のために生まれたものの、その小さなサイズ、非力なエンジン、そして質素な内装(写真)は、コメディアンたちの笑いものとなった。貧しい人々のための安っぽい小さなクルマとして知られるようになり、その結果、貧しい人々でさえも欲しがらなくなった。

公式には1954年モデルが存在するが、生産された1123台は、1953年モデルの在庫をシリアル番号を変更して再販売したものに過ぎない。その後、ヘンリーJは生産中止となった。確かに安価だったが、開発費は高くつき、会社の資金を枯渇させた。

貧しい人々のためのクルマ
貧しい人々のためのクルマ

奇抜なカイザー・ダーリン

上級モデルにも問題はあった。1951年モデルは14万台以上生産されたが、1952年モデルはわずか3万2000台、1953年モデルも同程度の台数にとどまった。1954年に導入されたカイザー・ダーリンというスポーツカーも損失を食い止めることはできず、生産台数はわずか435台。ちなみに、カイザー・ダーリンはフロントフェンダーにスライドして収納するユニークなドアを特徴とする。

致命的な打撃を受けたカイザーブランドは、欧州風の洗練されたデザインを導入したにもかかわらず、1954年に消滅した。残りのボディや部品を使い切るために、1955年モデルが少数生産されている。

奇抜なカイザー・ダーリン
奇抜なカイザー・ダーリン

ウィリス・ジープとの関係

ヘンリー・カイザー氏は、自身の自動車会社が破綻に向かっていることを悟ると、ウィリスやジープを生産する黒字企業ウィリス・オーバーランドの買収を決めた。カイザー・フレイザーの繰越欠損金をウィリス・オーバーランドの利益に充当すれば、投資額を迅速に回収できると考えたのだ。最終的に、6000万ドルでウィリス・オーバーランドの資産を買収。カイザーの生産拠点はミシガン州から、オハイオ州トレドにあるウィリスの工場(写真)へと移された。

ウィリス・ジープとの関係
ウィリス・ジープとの関係

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

カイザー・フレイザーの栄枯盛衰の前後関係

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