解決できなかった資金不足 「ビッグスリー」に挑んだ米国有数の自動車メーカー カイザー・フレイザーの栄枯盛衰(中編)

公開 : 2026.05.06 11:25

戦後の米国自動車産業で大きな役割を果たしながら、今ではほとんど知られていないメーカー『カイザー・フレイザー』。いかに問題を乗り越え、ビッグスリーに対抗したのか。その誕生と発展、衰退の経緯を紹介します。

高級志向のフレイザー車

カイザーが大衆車ブランドだったのに対し、フレイザーは高級ブランドであり、価格もそれにふさわしいものだった。最上位モデルのフレイザー・マンハッタンは2712ドル(現在の価値で約4万ドル=約625万円)だが、当時の新型キャデラック・シリーズ62の価格は2523ドルだった。この1947年の宣伝写真に見られるように、1947年モデルの車内は広々としている。上質なカーペットとシートの張り地にご注目いただきたい。

高級志向のフレイザー車
高級志向のフレイザー車

フラットヘッド6気筒エンジン

カイザーとフレイザーの両モデルは、コンチネンタル・モーターズが設計した226立方インチ(3.7L)のフラットヘッド6気筒エンジンを搭載。標準仕様では100ps、オプションの2バレルキャブレターを装着すれば112psを発生する。トランスミッションはコラムシフト付きの標準3速マニュアルで、オプションとしてオーバードライブ付きのものもあった。

フラットヘッド6気筒エンジン
フラットヘッド6気筒エンジン

ウィロー・ラン

デトロイトの大手メーカーたちは、カイザー・フレイザーがすぐに跡形もなく消え去ると予測していたが、驚くべきことに、同社が生産工場のリース契約を締結してからわずか9か月後には、新型車が組立ラインから次々と出荷されていた。皮肉なことに、その工場はビッグスリーの一員によって建設されたものだった。ミシガン州ウィロー・ラン(Willow Run)にある巨大な施設である。

ここは第二次世界大戦中の1942年に、主にB-24リベレーター重爆撃機を生産するためにフォード・モーター・カンパニーによって建設された。工場の規模はまさに圧倒的で、設計の際、地球の曲率まで考慮しなければならなかった。この場所を借りたフレイザーとカイザーが壮大な構想を抱いていたことは明らかだろう。

ウィロー・ラン
ウィロー・ラン

順調な生産拡大

自動車の生産は1946年の夏に始まった。最初は緩やかにスタートしたが、徐々にペースを上げていった。1947年9月25日には、10万台目の車両が出荷された。それから6か月も経たないうちに20万台を達成。カイザー・フレイザーは、ライバルの大手メーカーのいくつかを生産台数で上回ることになった。しかし、その裏では深刻な資金不足に悩まされていた。

順調な生産拡大
順調な生産拡大

上昇し続ける生産コスト

当初は、たまりにたまった需要のおかげで生産した車両はすべて売れたため、大きな障害はなかった。だが、時が経つにつれ、資金面での問題は徐々に肥大化していった。希少な素材や部品の調達にも莫大な費用がかかった。コストが数セント単位で計算される自動車業界において、カイザー・フレイザーが創業初期に購入した鋼材は、輸送費の割増料金を支払わなければならなかったため、1台あたり42ドルの追加コストがかかっていたと推定されている。生産を円滑に進めるため、一部の部品は莫大な費用をかけて空輸されることもあった。

生産量の維持が生命線であったため、同社はストライキを避けるために労働組合の要求を素直に受け入れるという不幸な習慣に陥った。その結果、カイザー・フレイザーの1台あたりの生産コストは、おそらく業界最高水準に達していたと思われる。

上昇し続ける生産コスト
上昇し続ける生産コスト

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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