5.0LのV8エンジンによるフォーミュラーマシン F5000を振り返る 前編

公開 : 2019.09.14 07:50  更新 : 2020.12.08 10:56

マクラーレン、サーティースとローラ

サーティースTS5はバスタブ・モノコックで、ロジャー・ネイサンが設計をしたもの。ジョン・サーティーズとジェームス・ガーナーのアメリカン・インターナショナル・レーシングとの契約が成り立たず、TSリサーチ&デベロップメントへと納入された経緯があった。

ローラT142はグループ4のレギュレーション変更に伴い溢れ出た、ローラT70のドライブトレインをスペースフレームに搭載したマシン。マクラーレンよりも安く、当時7055ポンド(91万円)。ロータスがトップグリッドを圧倒しており、実際は競合にはならなかった。

F5000カテゴリーのマシン(シェブロンB24)
F5000カテゴリーのマシン(シェブロンB24)

徐々に様々なマニュファクチャラーによる参戦も始まり、F5000には変化が起こる。カリフォルニアのイーグルMk5は、第2世代のインディカーをベースにしたモデル。トニー・サウスゲイトによって改造を受けたクルマで、クロモリ製ではなくスリムなスチール製のモノコックが特徴。1968年と1969年のSCCA(スポーツカークラブ・オブ・アメリカ)で優勝している。だが、英国製のシャシーが優位だった。

オーストラリアのF5000では、トライアングル・モノコックを持つ、フランク・マティックがドライブした、モジュラー・コンセプトのクルマが代表的存在。スペースフレームの構造を展開させ、排気流を利用したツイン・リアウイングも個性的だ。アデレードのレーサー、ギャリー・クーパーのエルフィン600や、ニュージーランドにはマンクス・グランプリでオートバイレーサーとして参戦したジョージ・ベッグなどのマシンもあった。

ロータスのF5000マシンとしては、1970年にフォードエンジンを搭載してジョージ・フォルマーがアリゾナで優勝。イーグルは、ジェームズ・ハントが車重で不利な755をドライブするも、ラグナセカで2位に着けただけで、1974年の復帰戦で優勝することはできなかった。

レーサーのデヴィッド・ホブスが振り返る

レーシングドライバーのピーター・ゲシンはマクラーレンM10Bプロトタイプで1970年のタイトルを死守。ドライサンプ・レイアウトでエンジン搭載位置が低かった。翌1971年、マクラーレンは大勢を変えずに参戦。ニュージーランド人のグラハム・マクレーは、2.5Lのサラブレッドを強化したF5000マシンで、タスマン・シリーズで優勝。デヴィッド・ホブスは、セントルイスの運送会社経営者のカール・ホーガンのチームで戦った。

「13戦中、8戦しか出場できなかったので、1969年のタイトルは逃しました。1970年も、シーズンの半分しか出場できず、フィニッシュできたのも3戦のみ。それでもサーティースのTS5とTS5Aは、マクラーレンと互角に走りました。高くそびえたリアウイングの利用が1970年に制限されましたが、心配したほど影響はありませんでした」 と振り返るホブス。

F5000カテゴリーのマシン(1970年マロリーパーク・サーキット)
F5000カテゴリーのマシン(1970年マロリーパーク・サーキット)

「ロジャー・ペンスキーが、デイトナやワトキンズ・グレン・インターナショナル・サーキットでフェラーリ512Mをドライブして欲しいと頼んできたので、チームを変更しました。それに、インディの500マイルレースでも3回戦いました。彼はグッドイヤー・タイヤとの仲介もしてくれました。マシンのセットアップも良く、われわれは5戦で優勝できたんです」

ローラ社のオーストラリア人開発ドライバーのフランク・ガードナーによって、単純なモノコックを持つT190は改良を受け、ホイールベースは延長された。T192となったクルマは、1971年のロスマンズ・ヨーロッパシリーズで3度の優勝を果たす。その後、ローラT240 F2マシンとシボレー製エンジンという組み合わせに変更された。エンジン両サイドに高くそびえるラジエターが特徴だ。ドイツのホッケンハイム・リンクでは、エマーソン・フィッティパルディのロータス56Bを破るなど、3勝をさらに挙げ、年間タイトルを取る。

おすすめ記事

 

クラシックの人気画像