当時は最前線の小型車 ルノー5 同期のホンダ・シビック 日仏で生まれた新たな魅力(1)

公開 : 2023.10.14 17:45

コンパクトカー・クラスの確立に貢献した日仏の2台 当時は最前線にいたルノー5 ホンダの成長を導いたシビック 英国編集部が振り返る

英国で輸入車が頭角を表し始めた1970年代

サイケデリックなファッションが街に溢れた1970年代。英国の一般道では、国外の自動車メーカーが頭角を表し始めていた。1969年では、英国で売れる新車の約9割が国産車だったが、1975年には輸入車が約3割を占めるようになっていた。

ローバーやジャガー、MGなどを傘下に収める巨大メーカーへ成長していたブリティッシュ・レイランドの会長、ドナルド・ストーク氏は、輸入車が欲しいと考える人は1度頭を調べた方がいい、という発言を残すほど。それでも、人気は衰えなかった。

メタリック・ゴールドのルノー5 GTLと、イエローのホンダ・シビック 1200
メタリック・ゴールドのルノー5 GTLと、イエローのホンダシビック 1200

魅力的なコンパクトモデルが、海外からグレートブリテン島へ押し寄せていた。その中でも代表といえる2台が、初代ルノー5(サンク)とホンダ・シビックだろう。

特にルノーは、1971年11月までに英国最大の輸入車メーカーという座を掴んでいた。1950年代の同社といえば、リアに小さなエンジンを搭載したモデルが定番といえたが、1959年に前輪駆動の商用バン、エスタフェッテが登場。レイアウトの変革が始まった。

2年後の1961年には、前輪駆動のコンパクトカー、ルノー4が登場。1965年に16が発売され、1968年の6、1969年の12が続いた。

ルノー5の開発を、同社の企画責任者、ベルナール・ハノン氏が始めたのは1967年。1年を通じて仕事にも休日にも使え、都市でも田舎でも乗れる小型車、生活のためのクルマが目指された。

プロジェクトコードには122が振られ、高速道路を安心して運転できる性能が求められた。若いドライバーが、気兼ねなく運転できるクルマである必要もあった。

当時は最前線の1台だったルノー5

スタイリングを手掛けたのは、社内デザイナーのミシェル・ブエ氏。彼はルノー4をベースとしながら、上層部が納得するハッチバック・フォルムを描き出した。多くの前輪駆動のルノーと同様に、ボンネット内には小さなエンジンが縦置きされた。

当時のCEO、ピエール・ドレフュス氏は、自社初となる3ドア・モデルが支持を得られるのか疑問を抱いていた。ディーラーも不安を口にした。しかし、1972年1月28日の発売直後から好調に売れ、5月までに3か月の納車待ちが生じたという。

ルノー5 GTL(1972〜85年/英国仕様)
ルノー5 GTL(1972〜85年/英国仕様)

コンパクト・ハッチバックでは、横置きエンジンのFFが定石のレイアウトとされ、5をその起源として認めるべきではないとする人もいる。1971年の、フィアット127が正当だという主張もある。1967年の、シムカ1100を推すマニアもいる。

それでも、0.8Lエンジンの5は最前線の1台だったことは間違いない。1968年に生産を終えたルノー・ドーフィンを、違う世界のクルマに見せたほど。

1974年から1983年にかけて、5はルノーのベストセラーに君臨する。ところが、デザイナーのミシェルはガンを発病し、急死してしまう。自らの作品の成功を、目撃することは叶わなかった。

グレートブリテン島へ上陸したのは1972年の後半。「皆さんが求めていたモノです。過去のミニやビートルがそうだったように、時代に適したクルマです」。と英国のルノーは高らかに宣言した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アンドリュー・ロバーツ

    Andrew Roberts

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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