サンヨン・コランド – 1996年

2代目コランドは、韓国企業サンヨンにとって高級化への大きな一歩であった。より丸みを帯びたスタイリングに加え、メルセデスから借りてきたエンジンラインナップがあり、その中には2.9Lのパワフルなターボディーゼルエンジンもあった。四輪駆動を備え、当時成長していたSUV市場で成功を収めるには絶好の位置にあったはずである。

コランドの問題点の1つは、サンヨンというブランド対する抵抗感であり、また、乗り心地の悪さも不利に働いた。英国では、コランドは1997年から1999年までの短い期間しか販売されず、2006年にすべての市場で販売終了となった。

サンヨン・コランド - 1996年
サンヨン・コランド – 1996年

ゼネラルモーターズEV1 – 1996年

販売競争でつまずいた多くのクルマと同様、GMのEV1は時代を先取りし過ぎていた。完全電気駆動であるだけでなく、リース形式での販売も大胆な試みだった。これは、GMが同車を研究開発プロジェクトの延長と見なしていたためである。反響は非常にポジティブで需要も高かったにもかかわらず、だ。

当初、EV1はカリフォルニア州とアリゾナ州のみで販売されていたため、台数が伸び悩んだ。GMは利益を生み出すには市場が小さすぎると判断し、プロジェクトを中止。当初製造された1117台のほとんどが回収、廃棄された。クルマ自体は間違っていなかったが、経営陣が間違っていた。GMの重役リック・ワゴナーは後に、EV1プロジェクトを中止したことは最大の後悔の1つだと語っている。

ゼネラルモーターズEV1 - 1996年
ゼネラルモーターズEV1 – 1996年

キャデラック・カテラ – 1996年

キャデラック・カテラは、欧州市場でそれなりの売り上げを誇ったオペル・オメガの米国版だ。スーパーモデルのシンディ・クロフォードを起用した広告キャンペーンを大々的に展開したが、5年間の生産期間中に9万5千台しか販売できなかった。不振の要因は、米国市場ではサイズが小さすぎたことと、ドイツ製で価格が高かったことにある。

キャデラックの苦境は、信頼性の低さと、タイミングベルトの破断やエンジン故障に対する当初のずさんな対応によってさらに悪化した。結局、多額の費用をかけてリコールを実施したが、その時点ではすでにカテラの評判は地に落ちており、2001年には販売チャートから姿を消した。

キャデラック・カテラ - 1996年
キャデラック・カテラ – 1996年

プリムス・プロウラー – 1997年

経営者が自分の思い入れのあるプロジェクトを強引に推し進めることはしばしばある。プリムス・プロウラーはその好例だ。プロウラーを世に出したのはホットロッド愛好家のトーマス・C・ゲイルであり、BMWミニやフォルクスワーゲンビートルに先駆けてレトロなデザインを取り入れたという点でも興味深い。プロウラーは、同じクライスラー傘下のダッジバイパーを買う余裕のない人々にも響くはずだった。

外観は素晴らしく、細部も申し分ない。ただ、1つだけ欠点があった。エンジンだ。3.5L V6エンジンは最高出力217psで、4速ATが標準装備されていたが、これがパフォーマンスを鈍らせ、期待されるV8サウンドも欠いていた。重量配分が50:50であるおかげでハンドリングはまずまずだったが、それでもスポーツカーファンを魅了するには至らず、5年間にわずか1万1702台が販売された。これはプリムスにとって最後の花道のようなもので、同ブランドは2001年に廃止された。

プリムス・プロウラー - 1997年
プリムス・プロウラー – 1997年

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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