解決できなかった資金不足 「ビッグスリー」に挑んだ米国有数の自動車メーカー カイザー・フレイザーの栄枯盛衰(中編)

公開 : 2026.05.06 11:25

深まる2人の対立

1949年の生産計画を巡り、頑固なヘンリー・カイザー氏がフレイザー氏と対立したことで、諸問題は沸点に達した。

フォードは1948年の夏、ビッグスリーの中で最初に戦後モデルを発表しており、フレイザー氏は競争の激化を受けて、全面刷新された1950年モデルが登場するまで生産を縮小すべきだと考えていた。しかし、カイザー氏は「カイザーは決して後退しない!」と宣言し、これを拒否した。カイザー氏は1949年モデルを20万台生産する体制を整えたが、これはフレイザー氏が推奨した量の約2倍にあたる。

深まる2人の対立
深まる2人の対立

写真:1949年型カイザー・マンハッタン

派生モデルの展開

車両にはフロントエンドのスタイリング変更を中心としたマイナーチェンジが施されたほか、ショールームに活気を与えるため、新たな「ハロー」モデルも追加された。カイザー・トラベラーとヴァガボンドの4ドア・ハッチバックに加え、高価な4ドアのカイザー・バージニア・ハードトップ、そしてカイザーとフレイザーの4ドア・コンバーチブルなどだ。4ドアのボディスタイルは1種類しかなかったため、新モデルのベースはすべて共通だ。

写真:1949年型カイザー・ヴァガボンド

派生モデルの展開
派生モデルの展開

立ちはだかる経営危機

結局、ジョー・フレイザー氏の予想は正しかった。フォードの新モデルは広範な販売網の助けもあり飛ぶように売れたが、1949年モデルのカイザー・フレイザーへの需要は急激に落ち込み、ウィロー・ラン周辺には売れ残った車両が山積みになった。1949年モデルの余剰ボディは1950年モデルの生産に流用され、同社は計画していた新型車の発売を1950年3月まで延期せざるを得なくなった。その新型車は、1951年モデルとして登場した。

多くの人が、1951年モデルの新型カイザーを市場で最も美しいセダンだと評価した(写真)。デビューした時は、頼りになる援軍が現れたかのように見えた。そしてしばらくの間、同社は危機を脱したかに思われた。

立ちはだかる経営危機
立ちはだかる経営危機

1951年モデルのフレイザー

一方、1951年モデルのフレイザーは、単に1950年モデルのデザインを小変更したに過ぎず、余剰ボディを消化するために作られたものだった。ジョー・フレイザー氏はとうとう我慢の限界に達し、会社を去ってしまった。1951年モデルのフレイザーが売り切れるやいなや、同ブランドは閉鎖され、売上を大きく失うことになった。

1951年モデルのフレイザー
1951年モデルのフレイザー

過ちの数々

他にも過ちはあった。最も重大だったのは、V8エンジンを導入できなかったことだ。ほとんどの自動車メーカーは、中価格帯においてV8が不可欠になりつつあることを認識していた。何しろ、フォードは早くも1932年に、労働者階級向けのフラットヘッドV8を生産していたのだ。スチュードベーカーとパッカードも独自のV8エンジンを開発。アメリカン・モーターズのナッシュ部門とハドソン部門はパッカードからエンジンを購入しつつ、自社でエンジン開発に取り組んでいた。

カイザーは独立系メーカーとして唯一、V8エンジンを導入できなかった。そのためやむを得ず、エンジンのパワーよりも経済性をアピールすることが多かった。

過ちの数々
過ちの数々

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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