かつてはハリウッド・セレブ御用達 デュアル・ギア(1) 量産見送ったクライスラーと試作車救ったトラックメーカー

公開 : 2026.07.25 17:45

ギア社のスタイリングと、クライスラーのパワートレインが融合したデュアル・ギア。僅か3年の提供でしたが、ハリウッド・セレブからも話題を集めました。117台の希少車を、UK編集部が振り返ります。

エンジンを2基積むトラックでブランド創業

英国の玩具メーカー、コーギーのモデルカーを通じて、ギアというクルマを知ったという人は筆者以外にもいるだろうか。車内にコーギー犬も乗っていた大胆な形のクーペは、かつてはハリウッド・セレブ御用達モデルだった。

イタリアのカロッツエリア、ギア社と、アメリカのデュアル・モーターズ社の合作は、僅か117台しかラインオフしていない。東海岸のビバリーヒルズでも、滅多にお目にかかれない代物だった。ロンドンで見かけることなど、皆無といえた。

デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)
デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)    ジャック・ハリソン(Jack Harrison)

イタリア系移民だったユージーン・カサロール氏は、デトロイトでオートモービル・シッパーズ社という、クライスラーの新車をトラックで運ぶ事業を営んでいた。当然のようにクルマ好きで、1946年から1954年にはインディ500のスポンサーに名も連ねた。

第二次大戦が激しくなると、連合国軍向けのトラック製造へ進出。エンジンを2基積む独創的な設計にあり、そこからブランド名はデュアル・モーターズに決まったという。

量産化されなかった4シーター・コンバーチブル

当時のギア社は、デザイナーのヴァージル・エクスナー氏が描き出す、スペースエイジなスタイリングを特長としていた。カサロールにとって、イタリアのカロッツエリアとクライスラーが手を組んだ、そんな大胆な容姿の試作車は見慣れたものだった。

1953年、デトロイトに構えたクライスラーのスタイリング・スタジオへ届けられたのは、2シーター・ロードスターのデザイン模型。それは傘下ブランドのダッジから、ファイアーアローという名のコンセプトカーとしてお披露目される。

デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)
デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)    ジャック・ハリソン(Jack Harrison)

両社は良好な協力関係にあり、北米各地のモーターショーを、ファイアーアローは巡回。来場者の反響は高く、エクスナー率いるギア社のチームはダッジのパワートレインとシャシーを利用し、実走行できる試作車を完成させる。

その後、約1年の間にスタイリングは3度の改良を受け、最終的にファイアーアロー IVへ進化。この4シーター・コンバーチブルをクライスラーは量産する、という推測がデトロイトへ広まったものの、実現はしなかった。

クライスラーから生産権利を取得したカサロール

これに目を付けたのが、クライスラーへ特別な親近感を抱いていた、ビジネス成功者のカサロール。デュアル・モーターズでの生産権利を得たいと、ダッジ・ブランドを率いたウィリアム・ニューバーグ氏へ交渉し、了承を得る。

量産へ向けて、ファイアーアロー IVは再設計。友人の技術者、ポール・ファラゴ氏へ協力が仰がれた。彼は1948年にフィアット1100がベースのレーシングカーを製作し、レースへ参戦。セブリング12時間レースでは、クラス優勝を遂げた経験があった。

デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)
デュアル・ギア(1955〜1958年/北米仕様)    ジャック・ハリソン(Jack Harrison)

ファラゴは、ギア社のアメリカでの代理店業務を営んでおり、デュアル・モーターズとの協力関係をバックアップした。クライスラー側からは、走行に必要な部品の供給契約を、カサロールが取り付けた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジュリアン・バルメ

    Julian Balme

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジャック・ハリソン

    JACK HARRISON

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋けんじ

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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