伯爵が愛したトポリーノ フィアット500 ブルー/ブラックのレーシングカラー 前編

公開 : 2023.07.22 07:05

レーシングドライバーでもあった伯爵が愛した、小さなトポリーノ。見事な復活を遂げた500を、英国編集部がご紹介します。

トポリーノを3台所有したハウ伯爵

英国貴族、第5代ハウ伯爵の肩書を持つフランシス・カーゾン氏は、貴族院の国会議員を務めたが、第二次大戦時は海軍指揮官として自ら戦闘にも加わった。さらに、レーシングドライバーとしても小さくない活躍を残した。

1884年生まれの彼にとって、3台目となったフィアット500「トポリーノ」は、1955年にロンドンの豪奢な自宅へ届けられた。10月に新車登録されているが、結果として右ハンドル車として作られた最後の車両となったようだ。

フィアット500 C トポリーノ(1955年式/英国仕様)
フィアット500 C トポリーノ(1955年式/英国仕様)

当時の英国価格は575ポンド。より安価な量産車がグレートブリテン島には存在し、イタリアからの輸入車は販売数を伸ばしにくい状況だった。生産開始は1936年で、既に20年近くが経過していたことも影響していたはず。

ハウ伯爵のような人物が、小さなフィアットを3台も購入したという事実は興味深い。モータースポーツへ積極的に参加するようになったのは、40歳を過ぎてから。ル・マン24時間レースにはドライバーとして6度も参戦し、1931年に総合優勝を掴んでいる。

ブルックランズやドニントンパークといった英国のサーキットで開かれたイベントを、アルファ・ロメオブガッティで競った。愛国者だっただけに、1920年代に充分なワークス体制が整えられていたら、ベントレーを駆っていたかもしれない。

英国モータースポーツの中心的な人物

生まれながら貴族階級にあったハウ伯爵だったが、楽観的な遊び人ではなかった。国を牽引する立場として、社会的な義務感や奉仕的な精神を備えていた。自らの影響力を活かし、市民に対する自動車の普及を推進した。

貴族院では、1935年から実験的に導入された市街地の速度制限へ異議を唱えた。時速30マイル(約48km/h)にするという、今としては真っ当な内容だったが、当時の価値観は現在と異なっていた。

フィアット500 C トポリーノ(1955年式/英国仕様)
フィアット500 C トポリーノ(1955年式/英国仕様)

第二次大戦後は、すべての車両へ道路税を導入する政策に対し、小型車のドライバーを保護するよう求めた。小排気量のクルマに乗る一般市民へ、不当な負担を課すことになると訴えた。

さらに、ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ(BRDC)を賛同者とともに設立。1945年以降、英国におけるモータースポーツの中心的な人物にもなった。

終戦で使われなくなった飛行場を、サーキットへ転用するというアイデアも広めた。彼の発言力がなければ、1948年の英国グランプリは開かれなかったかもしれない。英国空軍のシルバーストン空港を借り、サーキットへ仕立てて開催されたのだ。

複数の名車を所有し、実際に運転もした。彼のコレクションで最も有名な1台といえるのが、2007年に発見されたブガッティ・タイプ57S アタランテだろう。

ほかにアストン マーティンDB2/4や、ACアシーカ、メルセデス・ベンツ300SLなども維持していた。これらはグランドツアラーとして、長距離の自動車旅行に乗られていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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