60周年を迎えたランボルギーニ・ミウラ『公式』ヒストリー(2) 若き才能が生み出した革新的スーパースポーツ

公開 : 2026.03.24 17:25

3月12日、『アウトモビリ・ランボルギーニ、ランボルギーニ・ミウラ誕生60周年の記念すべき節目を祝う』と題したプレスリリースが発行されました。ここでは歴史的資料として、一部編集を加え全文掲載します。その5本中2本目です。

ダラーラとスタンツァーニ率いる若きエンジニアチーム

創業から2年も経たない頃、ランボルギーニは依然としてニッチなメーカーであったにもかかわらず、350GTによってすでに技術的な野心を打ち出していました。

創業者フェルッチオ・ランボルギーニは初代GTカーを誇りに思っていましたが、さらにパワフルな車両を構想していました。ジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニ率いる若きエンジニアチームが、その夢を現実化する任務を引き受けました。

ミウラの心臓部には、バンク角60度の3929ccV12エンジンを横置きに搭載。
ミウラの心臓部には、バンク角60度の3929ccV12エンジンを横置きに搭載。    アウトモビリ・ランボルギーニ

当時のミウラの心臓部には、バンク角60度の3929ccV12エンジンが横置きに搭載され、4本のカムシャフト、V字型のオーバーヘッドバルブ、7ベアリング構造のクランクシャフト、12個のスロットルバルブを備えた4つのウェーバー40IDL3Lキャブレター(後のIDL403C)を搭載していました。

また、このエンジンのクランクシャフトは通常とは異なり、反時計回りに回転しました。1964年以降は、ダラーラ、スタンツァーニ、ニュージーランドのテストドライバーであるボブ・ウォレスらが、モータースポーツから着想を得た新たなスーパースポーツカーのアイデアをベースに共同開発を進めました。

彼らはその作業の後に続けて、性能面を妥協することなく調整された、すぐに走行可能なプロトタイプシャシーを製作しました。フェルッチオ・ランボルギーニはプレゼンテーションを受けて即座にこのアイデアのポテンシャルを認め、プロジェクトL105として400TPの開発を進めることを承認しました。

トリノ・モーターショーでベアシャシー展示

1965年11月3日のトリノ・モーターショーにおいて、ランボルギーニは運転席の後方に横置きで搭載したエンジンと併せて、サテンブラックで仕上げたシャシーを展示しました。このモデルは、ランボルギーニ350GTおよび350GTSと並べて配置されました。

ベアシャシーがこれほど注目を集めたことは、それ以前にも以降にもありませんでした。厚さわずか0.8mm、多数の穴あけ加工が施されたこのスチール製の箱の重量はたった120kgで、4本の白いエキゾーストパイプは一瞬で来場者の視線を惹き付けました。

1965年11月3日のトリノ・モーターショーではベアシャシーのみを公開。
1965年11月3日のトリノ・モーターショーではベアシャシーのみを公開。    アウトモビリ・ランボルギーニ

これはサンタアガタ・ボロネーゼの若きスポーツカーブランドが自らの実力を表明した瞬間であるとともに、革新的な第一歩となり、複数のデザインスタジオがこのアイデアに基づいて、このシャシーを覆うエクステリアの製作を支援することを申し出ました。

しかし、ランボルギーニは申し出の受け入れを躊躇していました。伝承によると、ヌッチオ・ベルトーネがショーの終盤にランボルギーニ・ブースに現れ、彼が最後に立ち寄ったコーチビルダーだったとされています。

ベルトーネは展示されていたシャシーを仔細に観察した上で、フェルッチオ・ランボルギーニに「この素晴らしい足(シャシー)にぴったりの靴(ボディ)を仕立てよう」と語り、ベルトーネ自身のスタジオがデザインすると自信を持って告げたそうです。

実際にこのような対話があったかどうかは定かではありませんが、この逸話がふたりの起業家の間ですぐに生まれた相互理解と創造的な合意を印象的に表していることは、揺るぎのない事実です。

記事に関わった人々

  • 撮影

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

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