【黒木美珠がマツダ体験会をレポート:クルマづくり編】広島で生まれ、広島と生きてきたメーカー 「マツダ車を買って支えよう」
公開 : 2026.04.22 11:45
マツダが8年ぶりに開催した若手メディア向け体験会に、自動車ジャーナリスト(修行中)の黒木美珠が参加。今回は『クルマづくり編』をお届けします。広島との100年にわたる関係などブランドの思想を、じっくり学んできました。
広島という土地が育てたメーカー
マツダが若手メディア編集者向けに開催した体験会、その2日目のことです。(初日の様子は、【黒木美珠がマツダ体験会をレポート:クルマ体験編】まさかの北米向けCX-90、中国向けEZ-60まで用意 味付けの違いがくっきり 参照)
防府工場へ見学に向かう途中、ランチを兼ねてホテルに立ち寄り、宴会場で同社のクルマづくりの歴史を伺う機会がありました。

参加するまで、このブランドを本当の意味で知らなかったと思います。ロータリーエンジンがあって、広島のメーカーで、デザインがきれい。大げさに言うとそのくらいの認識でした。読者の方には常識的な話かもしれませんが、私にとっては初めて聞く内容も多く、話を聞くほどに見方が変わっていきました。
このメーカーが生まれたのは1920年の広島。創業時は東洋コルク工業という社名で、自動車とは少し縁遠いところからのスタートです。
広島という土地について聞いたとき、まず自分の中のイメージとのギャップに気づきました。洗練されて都会的な、きれいな街。そんなイメージがありましたが、実はもともと農業には向かない地形で、古くから砂鉄を使った製鉄文化が根付き、造船や金属加工へと技術が積み重なってきた土地だそうです。近くには呉もあり、戦前は軍都として発展。
なるほど、だからこそ自動車メーカーが根を張れたのかと、話がすとんと落ちてきました。そういう土壌の上にこの企業は生まれた。単なる発祥地という話ではなく、この土地だからこそ生まれた会社なのだ、と思えてきます。
マツダはなぜ広島を離れないのか
1945年、広島に原爆が投下されました。市街地の中心部は壊滅的な被害を受けましたが、マツダの工場は中心部から少し離れていたために、屋根や壁に一部損傷があったものの、建物としてはまだ機能する状態だったといいます。そこに、行き場を失った広島県庁、市役所、報道局が間借りをしました。
すべてを失った人々が肩を寄せ合い、マツダの工場を拠点に、復興へと立ち向かっていったのです。

これを聞いたとき、鳥肌が立ちました。たまたま工場が残っていた。その『たまたま』が、どれほど多くの人を支えたか。そしてその出来事が、マツダと広島の間に、どれだけ強い絆を生んだのか。
さらに胸に刺さったのが、その後の話です。
マツダが経営危機を迎えるたびに、広島の人々が『マツダ車を買って支えよう』という動きを自然と起こしたというのです。企業が地域のために動き、地域が企業のために動く。恩を返すように、手を差し伸べあって。
そういう関係が100年以上続いてきたのです。このメーカーが広島を離れない理由が、見えた気がしました。





















