初代ロードスターに関与 「英国版ピニンファリーナ」の太く短い生涯 歴史アーカイブ

公開 : 2025.01.24 18:05

英国のインターナショナル・オートモーティブ・デザイン(IAD)社はさまざまなメーカーに影響を与えてきたデザイン会社で、1993年まで大きな存在感を示していた。当時のAUTOCARの記事を振り返ってみる。

大きな存在感を示した「裏方」

英国サセックス州のワージングという町には、イングランドのどこにでもあるような灰色のビジネス街がある。

しかし、まさにこの地で、1980年代と1990年代に愛された多くのクルマや奇抜なコンセプトカーが、イタリアのカロッツェリアに匹敵するクリエイティブエージェンシーによってデザインされていたのだ。

IADが製作したスポーツクーペ「マギア(Magia)」のプロトタイプ。ランチア・デドラの派生型となるはずだったが実現せず。
IADが製作したスポーツクーペ「マギア(Magia)」のプロトタイプ。ランチア・デドラの派生型となるはずだったが実現せず。

インターナショナル・オートモーティブ・デザイン(IAD)は、オーストラリアのゼネラルモーターズのホールデン部門でエンジニアとして働いていたジョン・シュート氏によって1976年に設立された。

同社が初めてAUTOCAR英国編集部の目に留まったのは、1980年の英国モーターショーで、旧式化したトライアンフスポーツカーTR7を復活させるというアイデアを披露したときだった。その時点で、同社はすでに160人のスタッフを抱えていた。

それから6年後、AUTOCARの取材班はワーシングの技術センターを訪問した。当時、IADは1350万ポンドの収益を上げ、女王産業賞を誇らしく受賞していた。グローバルな事業展開を進め、ピーク時にはフランス、ドイツ、スペイン、日本、米国にオフィスを構えていた。

BMWフォードランドローバーロータスポルシェサーブボルボなど、37社以上の有名企業が顧客名簿に名を連ねていた。ただ残念なことに、一部の例外を除いて、IADがどの企業のどのモデルに貢献したのか、いまだに正確に把握できていない。

当時のAUTOCARの誌面では、次のように書かれている。

「シュート氏はクライアントが安心して眠れるように、デザインスタジオよりもフォートノックス(スパイ映画に登場する軍事要塞)にふさわしいシステムを考案した。正しくコード化されたキーカードを持つ者だけがプロジェクトにアクセスできるのだ」

「つまり、数か月から数年続く可能性のあるその仕事の間、その仕事に割り当てられた人だけがそれを見ることができるのだ」

設立者のシュート氏はインタビューで、「それが本来あるべき姿です」と語った。「一歩間違えれば、ビジネス全体が台無しになり、すでにナーバスになっているクライアントがパニックに陥る可能性があります」

記事はさらに、「クライアントが利用できる施設は非常に広範にわたっている」と続ける。「IADは、特定の短期の設計作業に専門スタッフを雇う気のない大手メーカーから “あふれた” プロジェクトを引き受けることから始めた」

「今日、業務はますます大規模になり、そうした需要に応えるためIADは設備を常に更新し、アップグレードし、現在では最初のコンセプトから製品化、プロトタイプのテストまで、デザイン業務全体を請け負うことができるようになった」

IADはまた、同社独自でコンセプトカーのデザインと展示も開始し、「ハードワークとハードセールスの背景をより一般の人々にアピールする」ようになった。

中でも注目すべきは、1986年のトリノ・モーターショーで発表されたエイリアン(Alien)である。これは、シュート氏が尊敬するイタルデザイン、ザガート、ピニンファリーナによる「大胆なコンセプトカーから注目を幾分か逸らすほど先鋭的」で、「実現には多額の費用がかかったが、そこから直接的に得た関心や新規ビジネスによって、何倍にも上回る利益を生み出した」

1988年、AUTOCARは再びワージングを訪れた。IADは洗練されたセダンのロイヤル(Royale)とオフロード車のハンター(Hunter)を発表し、売上高は4000万ポンドに急上昇し、国防省から品質認定も受けた。

「IADの成功と継続的な拡大の理由は1つだけではないが、それは間違いなく会長の想像力と活力に大きく依存している」と当時の記者は書いた。

「シュート氏自身は、質の高い仕事をし、各クライアントと強固な関係を維持してきたことも成功の一因だと考えている」

おそらく、明らかになっているIADのプロジェクトの中で最も素晴らしいのは、初代マツダMX-5(日本名:ロードスター)だろう。

セールスおよびマーケティング責任者のマイク・ゴールドスミス氏は次のように明かした。「1984年の終わり頃、マツダの技術研究所はIADに軽量スポーツカーの設計と試作車の製作に向けたコンセプト・エンジニアリング・プログラムを依頼した」

「完成した試作車は、幹部による試乗が行われた。その結果、各方面からプロジェクトへの大きな期待が寄せられ、さらなる開発と最終的な量産化へのゴーサインが出された」

「5年前の我々の努力が、世界で最も手頃な価格のスポーツカーの1つの誕生に少なからず貢献したと信じたい」(ゴールドスミス氏)

1990年、IADはワークショップを2倍に拡張し、「非常に小規模」な量産プロジェクトにも対応できるよう体制を整えた。米国ロサンゼルス向けに小型EVを開発していたスウェーデン系企業クリーン・エア・トランスポート社と提携したのだが、これは実現には至らなかった。

IADは、世界の自動車業界を直撃した不況のさなか、1000人ものスタッフを擁しながら1993年に倒産した。商用車メーカーのレイランドDAFは50万ポンドの負債を抱えて破綻し、ランチアはデドラをベースにしたクーペ案を採用しなかったために30万ポンドの損失を被った。

IADは英国のエンジニアリンググループ、メイフラワーに救済されたが、そのワージングの拠点は強気の韓国自動車メーカー、大宇に売却された。IADの名前はあっという間に消え、メイフラワー自体も2003年に倒産した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    クリス・カルマー

    Kris Culmer

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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