米国で最も革新的だった自動車メーカー パッカードの興亡(後編) 戦争と合併、そして終焉

公開 : 2025.10.04 12:25

かつて米国を代表する高級車メーカーの1つとして栄華を誇ったパッカード。今やその名を知る人はほとんどいません。他社に先駆けて最新技術を積極的に取り込み、時代をリードしたパッカードの繁栄と衰退の歴史を振り返ります。

パッカード・クリッパー

『クリッパー』の名を冠した最初のモデルは、1941年4月から生産開始されたが、米国が第二次世界大戦に参戦した直後の翌年2月、政府命令により民間用自動車生産がほぼすべて停止したため、短期間での生産終了となった。それでも重要なモデルでることに変わりはない。パッカードは保守的なボディスタイルでは成功が望めないことを悟り、フロントフェンダー一体型ヘッドライトをはじめとする現代的なデザインを考案した。

平和が戻るとクリッパーの生産は再開され、1956年には独立したブランドとして扱われるようになった。フォードやゼネラルモーターズ(GM)など、他社は新ブランド創出に積極的だったが、パッカードがブランドを立ち上げたのはこの時だけだった。

パッカード・クリッパー
パッカード・クリッパー

パッカードと戦争

第二次世界大戦中、パッカードは他社と同様に生産ラインを転換し、軍需品の生産に注力した。パッカードは主に軍用V12エンジンの生産に専念していた。その生産台数については諸説あるが、ライセンス生産でロールス・ロイス・マーリン航空エンジンを約5万5000基、自社設計の船舶用エンジンを約1万3000基、さらに不明瞭ながらおそらく4000基を超える船舶用トランスミッションを生産したと言われている。

マーリンエンジンはGM製のP-51マスタング戦闘機の性能を飛躍的に向上させた。当初はアリソン製エンジンを搭載していたが、ロールス・ロイス設計のエンジンは高高度での性能が格段に優れていた。ドロップタンク(増槽、追加の燃料タンク)の使用と相まって、1944年春以降の欧州戦線で連合国が制空権を獲得する一助となり、事実上ナチス・ドイツの敗北を決定づけたのである。

パッカードと戦争
パッカードと戦争

パッカード200と250

パッカードは1951年にラインナップを大幅に見直した。その年に導入された新型車の中で最も低価格だったのが200である。1940年代後半のパッカード(しばしば「バスタブ」と揶揄された)よりはるかにモダンなスタイリングを持ち、お馴染みの直列8気筒エンジンの4.8L版を搭載していた。250もほぼ同じ設計だが、5.4Lエンジンを搭載し、ボディスタイルが若干異なっていた。

両モデルともウルトラマティックという自動変速機が用意されていた。これは当時としては珍しくパッカードが自社開発したもので、外部サプライヤーから調達したものではない。200と250は1951年と1952年モデルイヤーのみこの名称で販売された。その後はクリッパーという名称で販売されるようになった。

1951年 パッカード250コンバーチブル
1951年 パッカード250コンバーチブル

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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