ベルトーネを救った快作 アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1) 目指すは英伊の融合

公開 : 2025.09.27 17:45

倒産危機にあった1950年代のベルトーネ 北米販売のため200台を契約したスタンレー キビキビとした仕草が生む笑顔 トリノの自動車メーカー全体へ活気 UK編集部が希少な英伊合作をご紹介

倒産危機にあったカロッツエリア

フェンダーが飛び出した1950年代のMG TD ミジェットに、イタリアのカロッツエリア、ベルトーネ社のボディを被せたら? 馬力は54psしかない。興味をそそられるかもしれないが、穏やかな走りを想像しても不思議ではない。

ところが、ベルトーネはスチールとアルミを巧みに利用した。アーノルトMG ドロップヘッド・クーペの走りは、意外にも軽妙。スタンレー・アーノルト氏が独自ブランドを立ち上げ、アメリカでの販売を決断したことにもうなずける。

アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)
アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

倒産危機にあった、カロッツエリアを救うことにも繋がった。1950年代初頭、自動車はセパレートシャシー構造からモノコック構造へ進化。美しいボディを数多く生み出した名門といえども、厳しい状況へ追い込まれていた。

北米での販売を提案し200台を契約

イタリア・トリノで、ジョヴァンニ・ベルトーネ氏が創業したベルトーネ社。彼の息子、ヌッチオ氏は廃業を免れるべく、既に新鮮味が薄れていたMG TDのシャシーを用意し、新しいボディのクーペとカブリオレの2台を試作した。

1952年のイタリア・トリノ・モーターショーで発表されると、関心を寄せたのがスタンレーだった。彼は、第二次大戦中にアメリカ海軍へ船舶用エンジンを提供し富を築いた実業家で、英国車マニアとしても知られていた。

アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)
アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)

1950年にはアメリカ・シカゴに自動車ディーラーを設立。ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)のモデルを販売し、中西部では最大規模へ成長させていた。そんな彼は、TDの先代に当たるMG TCを愛用していた。

ヌッチオと対面した彼は、ショーカーをその場で購入。北米での販売を提案し、200台の追加契約も結んだ。ベルトーネ社のスタッフは、深く喜んだに違いない。

目指したのは英国とイタリアの融合

そのスタイリングには、ヌッチオだけでなく、34歳だったデザイナーのフランコ・スカリオーネ氏も加わっていた。自動車業界での経験はなかった彼だが、素晴らしいスケッチ力と貴族的な振る舞いが気に入られ、雇われることになったらしい。

果たして、スカリオーネはすぐに頭角を現し、1960年代にはベルトーネ社を代表するデザイナーへ。アルファ・ロメオ・ティーポ33 ストラダーレやコンセプトカーのBAT、NSUスポーツ・プリンツなど、傑作を数多く残している。

アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)
アーノルトMG ドロップヘッド・クーペ(1953〜1954年/北米仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

TD用のボディでは、英国とイタリアの融合が目指された。フロントは、縦に長いグリルと丸いヘッドライトが特徴で、ランチア・アウレリアにも似ている。サイドのプロポーションは、同時期のアストン マーティンとも重なる。

スチールの骨格にアルミ製パネルを組み合わせ、セパレートフェンダー・ボディのTDから増えた車重は9kgだけ。空力特性に優れ、高速域での安定性は増していた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋けんじ

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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