英国が日本車の輸入拡大を阻止した時の話 1970年代の貿易摩擦 歴史アーカイブ

公開 : 2025.12.13 11:45

英国ではかつて、国内メーカーを守るために日本車のシェアを制限していた時期があります。日本のメーカーは、不当に安い価格でクルマを販売しているという疑惑もかけられていました。当時のニュースを振り返ります。

日本車が恐れられた時代

英国の新車市場では最近、中国ブランドが貪欲にシェアを拡大している。2024年の市場シェア5%から、2025年には8%に達する見込みだ。

こうした状況は英国で大きな不安と反発を引き起こし、中国の自動車産業に対する制限措置を求める声も上がっている。

1970年代の英国および欧州では、急増する日本車の輸入に対して危機感を抱いていた。
1970年代の英国および欧州では、急増する日本車の輸入に対して危機感を抱いていた。

これは、日本ブランドが躍進し、英国の自動車メーカーを苦しめていた1970年代半ばの状況と驚くほど似ている。

1973年8月、ブリティッシュ・レイランド(BL)のドナルド・ストークス社長は、当時経済的に苦境にあった英国が「身辺を整える」までの間、外国製のクルマやテレビ、電子製品、さらには洗濯機の輸入も禁止すべきだと訴えた。彼は「国が羽をむしられるガチョウのように傍観している」と主張したのだ。

輸入車は同月、過去最高となる32%の市場シェアを獲得し、年間総販売台数は32万8000台に達した。そのうち6万2000台が日本車だった。

当然ながら、国内の自動車輸入業者は激怒した。ダットサン日産)UKは「ストークス氏の発言は経済的に意味をなさない上、国民を誤解させる可能性がある」と指摘した。

「彼は事実をほとんど引用せず、大げさな主張に終始している。欧州に助言する前に自らの身の回りのことを見直すべきだ。英国のような貿易国家が多様な輸入品を禁止すべきだという提案を、真剣に受け止める者などいない」

確かにその通りかもしれないが、自動車輸入制限のアイデアは真剣に検討され、英国自動車製造販売者協会(SMMT、日本の自工会に相当)のギルバート・ハント会長の支持を得た。その根拠は「現在、貿易に深刻な不均衡が存在する」というものだった。

「貴殿らの動揺は理解に苦しむ」とダットサンUKは公開書簡で回答した。

「日本車に制限を課しても英国産業の助けにはならない。ルノーフィアットフォルクスワーゲンの販売が増えるだけだ。むしろ英国産業を阻害する可能性すらある。高品質な競争相手を排除することは、自国の従業員の意欲を高める上で決して良い策とは言えない」

英国でも意見が割れた輸入制限

数千人の労働者をバックにつけたバーミンガム選出の労働党議員レイ・カーター氏は、1975年1月に議会でこの問題を追及した。

彼は、日本の自動車輸出量が輸入の約62倍に達していると指摘し、「わたしが求めるのは日本車の輸入禁止ではない。英国産業が公正な取引基盤を得ることだ。日本メーカーが英国へ自由に輸出できるのと同様に、英国メーカーも日本へ自由に輸出できる環境を作るべきだ」と述べた。

日産『キャシュカイ』をはじめ、現在では多くの日本車が英国で生産・販売されている。
日産『キャシュカイ』をはじめ、現在では多くの日本車が英国で生産・販売されている。

「日本のメーカーとディーラーは、コスト削減を厭わずに英国市場へ深く浸透し、英国車の購入に必要な金利(HP、分割払い)の約3分の1でクルマを販売している。これは英国メーカーにとって不公正な取引慣行と受け止められている」

対する貿易大臣の応答はこうだ。「こうした要求を生む懸念には同情するが、それを正当化しようとする論理を(労働党)政権が受け入れるのは適切ではない」

しかし、同年12月、SMMTは日本自動車工業会(JAMA)と会談し、「いつもの苦情」を申し入れた。するとJAMAは「1975年後半の売上水準を、1976年最初の3か月間は維持する」とし、加盟企業のシェアを約10%に保つと約束した。なぜ、このような約束をしたのだろうか? これは推測の域を出ないが、SMMTが1969年関税法(ダンピングおよび補助金)に基づく法的措置をちらつかせたためだと考えられる。

4月、両団体は再び対立することになった。SMMTは日本企業が「自主協定」を順守していないと主張したが、JAMAは強く否定し、「我々への自制要請は、単に他の外国車による代替を意味しているようだ」と付け加えた。

この市場シェア10%という「ルール」の非公式性が、1977年初頭に新たな頭痛の種となった。スバルが新たに英国進出を表明したのだ。ダットサン、トヨタマツダホンダ、コルト(三菱)のうち、どこが席を譲るべきか?

トヨタの提示した答えはダットサンだった。英国で販売される日本車の半数以上を占めていたからだ。「我々は損をする立場だ」と三菱も同意した。信じがたいことに、ダットサンUKは、そもそもそのような制限は合意されていないと反論した。

しかし、確かに合意は存在した。JAMAは何度もその約束を更新し、1999年末までシェア制限を守り続けた。その頃には、BLは悲惨な末路をたどり、とっくに消滅していた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    クリス・カルマー

    Kris Culmer

    役職:主任副編集長
    AUTOCARのオンラインおよび印刷版で公開されるすべての記事の編集と事実確認を担当している。自動車業界に関する報道の経験は8年以上になる。ニュースやレビューも頻繁に寄稿しており、専門分野はモータースポーツ。F1ドライバーへの取材経験もある。また、歴史に強い関心を持ち、1895年まで遡る AUTOCAR誌 のアーカイブの管理も担当している。これまで運転した中で最高のクルマは、BMW M2。その他、スバルBRZ、トヨタGR86、マツダMX-5など、パワーに頼りすぎない軽量車も好き。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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