トヨタ博物館の至宝 34選(後編) 花開く日本車の個性

公開 : 2025.07.19 19:25

愛知県長久手市にあるトヨタ博物館には、トヨタ車をはじめ、世界各地の名車が数多く動態保存されています。クルマ好きには必見のスポットと言えるでしょう。今回はその見どころをほんの一部だけ紹介します。

トヨタFJ25L(1955年)

トヨタ初の “ジープ” は、1951年に朝鮮戦争向けの軍用車両として、当時普及していたウィリスをベースに開発された。第2世代のFJ25Lは、民間用として開発され、1955年から製造された。

ランドクルーザー』と名付けられた最初のクルマであり、史上最高の悪路走行性能を誇るクルマの1つとして、大量に輸出された。

トヨタFJ25L(1955年)
トヨタFJ25L(1955年)

フライング・フェザー(1955年)

フライング・フェザーは、できるだけ軽量で経済的なクルマとして設計された。自転車にヒントを得たスポークホイールを採用し、フロントブレーキは未装着。当時のオートバイで一般的だった350ccの空冷V2エンジンを搭載していた。

しかし、消費者はより高性能なクルマを求めていたため、フライング・フェザーは商業的な成功を収められなかった。

フライング・フェザー(1955年)
フライング・フェザー(1955年)

フジキャビン 5A(1957年)

この愛らしい三輪のバブルカー、フジキャビン5Aは、フライング・フェザーと同じく富谷龍一氏によって設計された。

小型の121ccエンジンを搭載し、1本の後輪で駆動する。モノコック構造のGRPボディを備えていたが、生産台数はわずか100台だった。

フジキャビン 5A(1957年)
フジキャビン 5A(1957年)

いすゞPH300ヒルマン・ミンクス(1960年)

英国人ならこのクルマにどこか見覚えがあるかもしれない。ヒルマン・ミンクスは、1960年にルーツ・グループからライセンスを受けていすゞが生産したクルマだ。当初はノックダウン方式で輸入され、PH300という名で販売された。1957年に国内生産が開始され、6万7729台という驚異的な販売台数を記録した。

いすゞPH300ヒルマン・ミンクス(1960年)
いすゞPH300ヒルマン・ミンクス(1960年)

スバル360(1958年)

スバルの最初の量産車である360は「てんとう虫」の愛称で親しまれ、356ccの直列2気筒2ストロークエンジンを搭載していた。4人乗りだった。

スバルは富士重工業を前身とし、6つの企業が合併して設立された。そのため、同社のロゴには6つの星(六連星)が描かれている。そのうちの1社は、第二次世界大戦中に軍用機を製造していた中島飛行機だった。

スバル360(1958年)
スバル360(1958年)

プリンス・グロリア・スーパー6(1964年)

プリンス自動車工業(現日産自動車)は、1964年にこのスタイリッシュなグロリア・スーパー6を製造した。グロリアとしては2代目にあたり、オーバーヘッドカムの直列6気筒1988ccエンジンによりパフォーマンスを向上させていた。

プリンス・グロリア・スーパー6(1964年)
プリンス・グロリア・スーパー6(1964年)

東洋工業ファミリアSSA(1966年)

軽自動車を製造していた東洋工業(現マツダ)は、1966年にこのファミリアSSAを製造した。4気筒782ccアルミニウム合金エンジンを搭載し、わずか1年間のみ製造された。

東洋工業ファミリアSSA(1966年)
東洋工業ファミリアSSA(1966年)

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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